徳本上人像の文化財指定を求める
一般質問および町当局の答弁(要旨)
12月定例議会における一般質問で、介護保険の改善・充実と石川地区の排水路整備に続いて、大日寺所蔵の徳本上人像の文化財指定について、つぎのように質問し町当局の見解を伺いました。質問および答弁は、次の通りです。(録音テープから起こしたものです。文責=梶田)
第三の質問は、大日寺に所蔵されている徳本上人木像の文化財指定について、であります。
私は、『写真とは記録である』と主張される土門拳氏の主宰する日本リアリズム写真集団に所属して、文字通り記録としての写真に取り組んで参りました。
20数年前になりますが、町内の主として江戸時代の石造物の調査と記録を進めていた折りに、たまたま大日寺の境内に建立されていた南無阿弥陀仏六字名号碑が目に留まりました。
その独特な書体は初めて目にするものであり、強い感銘を受けたことを思い出します。折角の機会なので、その独特な書体の名号碑、私はそれを徳本流名号碑と呼んでいますが、その由来などを調べてみようと思い立ち、取りあえず知多半島内の分布状況を調べてみました。
仏教はもとより宗教については、全く素人で門外漢の私は、南無阿弥陀仏と言えば念仏、念仏と言えば浄土宗という程度の認識から、知多地方の浄土宗関係の寺院を市町誌や電話帳を頼りに訪ね歩きました。
そして、境内や墓地などを見て回り、住職に徳本流名号碑の存否を尋ねて歩き、存在する場合には、その由来などを尋ねてみました。 その結果、知多地方に26基の名号碑が存在し、また旧家に掛け軸も存在することが分かり、この地方にも少なからず影響を及ぼしていた事実が明らかになりました。
また、意外なことに、境内や墓地に徳本流名号碑が存在しているのに、その存在を認識しておられない住職も居られたり、ましてやその由来についてご存じない方が多かった事に驚きました。1978年に、この時の調査結果を、拙い一冊の写真集としてまとめました。
この調査の過程で、大日寺住職より徳本上人の木像が所蔵されていることを知らされました。早速、御像を拝見させていただき、撮影して写真集にも収録させていただきました。
一昨年、ホームページを開設して、議会報告などと共に徳本上人の遺跡に関する情報を求めるページを設けたところ、多くの方々からお手紙やe-mail、関係する出版物などをお送りいただきました。
大日寺所蔵の徳本上人像に墨書されている「皇都仏師 西田立慶」について、神奈川県の方から「運慶・快慶を輩出した定朝系の仏師ではないかと調査してみたが、系譜の中には現れない。しかし、御像の御姿から高名な仏師であろうと推察される」旨のお便りをいただきました。
長野県北安曇郡白馬村教育委員会が発行した白馬の文化財第2集「白馬の石仏」誌が、その調査・執筆に直接携わった田中欣一先生から送られてきました。私も、善光寺をお詣りした折りに、本堂隣りに立派な徳本流名号碑が建立されていて感銘を受けていただけに、信州一円にも大きな影響を及ぼしていた事実を知らされて感銘ひとしおの思いをいたした次第であります。
また、徳本上人の生誕の地でもある和歌山県日高町の教育委員会からは、念仏行者徳本上人を特集した「日高町の文化財」誌が送られてきました。その最初のページに「徳本上人像」の項が掲げられ、次のように記されています。
「享和元年(1801年)十月、徳本は有田市宮原の須ケ谷山での三年間の修行を終え、箕面市豊川村粟生の勝尾寺に赴かれた。法然上人四年間閑居の旧跡地で二階堂を道場として別時念仏などを執り行われていた。又、年久しく荒らしていた松林庵を改修して徳本に供養するなど一山あげて随喜した。当時京都市四條に西田立慶という仏師があり、立慶は前々から徳本に私淑して念仏称名に何となく法悦を感ずるようになっていた。
享和の初期、徳本上人勝尾寺に留錫せられて念仏の弘通に精励されていることを聴き伝え、ひそかに京都を発ち松林庵の門を叩いた。立慶、徳本を一目みて其の尊厳さに打たれ、御姿を後世に残したいと徳本に懇請して百日間を一期とし毎日念仏の苦修を続け御姿を十二分に会得し終わった。期日過ぎるや一目散に帰京して一刀三礼寝食を忘れて一気に彫刻し完成の悦びを味わった。木像の両眼から発する威光は、拝者の心中を洞察するかのような鋭さに感激せざるを得ない。立慶が彫刻した木像は勝尾寺、一行院等数体あったが、戦災で焼失し、現存するのはこの御像と、愛知県知多地方の大日寺の一体等数少なくなっている。」
私は、このような情報に接して、大日寺所蔵の徳本上人像をこのまま埋もれてしまうことに忍びがたい思いを禁じ得ず、私的な趣味の世界のことでもあってこのような場所で取り上げることにいささか躊躇していましたが、この際、しかるべき調査・研究のうえ資料的・文化財的価値が確認されるならば、ぜひ、文化財としての指定をお願いしたいと提案する次第であります。町当局の見解を伺いたいと思います。
町長答弁 徳本上人の木像の文化財の問題についてでありますが、大変ご造詣の深いお話を聞かせてもらい、徳本上人像のすごさを知ることができたわけですが、文化財の取り扱いにつきましては私の所管ではございませんので、この点に関しましては文化財保護委員会等で十分ご調査をいただくということで教育委員会の方からお答えさせていただきたいと思います。
教育次長答弁 徳本上人像について、若干、答弁したいと思います。
古仏の研究家であります梶田議員さんには、貴重な存在とお話をいただきまして、敬意と感謝を申し上げます。
私も、徳本上人がどんな方かということは何も知りませんでして、ご質問の通告をいただきまして少し本をめくってみますと、こんなことが書いてございました。
ちょうど江戸時代の中期、1758年に和歌山県の日高郡久志村、現在の日高町で生まれて、4歳にして無常を感じて、25歳にして日頃の志を貫いて寺へ入られ、その後においては1784年、天明4年大円に従って得度されたというようなお方だそうでして、その後においても寺を転々とされまして、説教あるいは修行を重ねまして、念仏行者として修行されたようであります。
文化14年には、東京の方へ東遊もされ、1818年に61歳でなくなられたお方だそうでございます。その中で、非常に徳本上人は、『宗余乗の研究もまた甚だ深く、加うるに徳高く一薪一草も布施なれば、一旦勤めずば一日食せずと称し、物を貴ぶことが厚かった。』(梶田註=『大百科事典第19巻120頁、平凡社刊)というようなことが書いてございました。
この徳本上人像の文化財指定を求めるということでございますが、私どもまだよく承知してない面がたくさんございます。先ほどご紹介していただいたように、貴重なものだということが私どももわかりましたし、今後、知多管内の徳本上人の木像だとかあるいは字を書いたものがあるということがございまして、梶田先生からも本をいただいているようでございます。
そして、有形文化財につきましては、先ほど町長がお答え申し上げましたように、本町の文化財保護委員さんのご意見も、あるいは指導を受けることはもちろんのこと、所有者、占有者の方の同意など、文化財関係者の先生方の鑑定を含めまして調査・研究をさせていただきたいと思います。
また、この仏像を造られた西田立慶という方がどんな方であるかとか、といったことについても今後研究してまいりたいと思います。よろしくお願いいたします。
再質問 徳本上人像の文化財指定については、次長の方から人物紹介もされましてありがとうございました。私が申し上げましたように、全く私的な趣味の一環でありますので、私からこうせよということを言えるほど私は見識を持ってるわけではありませんので、ぜひ、文化財保護委員会などでテーブルに載せていただいて、専門家のご意見もうかがっていただいて、それだけの価値があるものならぜひお願いしたいということであります。いや、それほどのことではない、ということであればネグっていただいて私はいっこうにかまいませんので、そのような研究をお願いしたいと思います。
併せて、私は、武豊町内には、他の文化財的な価値のあるものはまだまだ埋もれているのではないかということを、私のこういうことを通して感じたわけです。それで、既に指定の文化財は町誌などにも紹介されておる通りでありますけれども、まだまだ埋もれているんではないかというふうに思いますので、もし可能ならば町全体で再度文化財の掘り起こしなど、文化財保護委員会などに提案していただければ幸いであります。その点だけ、ご要望を申し上げておきたいと思います。
以 上